More Stories on Book Review »

2011年12月15日木曜日

『河岸忘日抄』


今回のブックレビューは、ファン・デ・ナゴヤ美術展2012「緘黙する景色」の企画者、伊藤正人さんにオススメの一冊を紹介していただきました。

『河岸忘日抄』 堀江 敏幸著、2005年、 新潮社刊

 本を読んでいるとき、それまでページ上の言葉に傾注していたはずの意識がいつのまにかとぎれ、それでも字面だけは見つめながらまったくべつのことを考えている自分に気がついて、あぁしまったと五六行うしろにもどって読みなおすことが多々ある。あるいは何日間かかけて長編を読んでいるとき、延々と読みつづけていられるわけではないから、本をいったんすえおきながら食事をしたり働いたり、ひとりでなにもせずにぼんやりしているうちに、読みさした物語はどこかで意識しているはずなのだが、つなぎ目となる部分が次第に希薄になっていき、前日まで読みすすめた内容をすっかりわすれていることがある。
 前者においても後者においてもあまり積極的な読書とは言えないが、それが読むことの自然であるとするならば、堀江敏幸の「河岸忘日抄」は読んでいないあいだのこと、つまり、よそ見や保留の状態をも積極的に促すような読みものである。

 異国のとある河岸に繋留された、動かない船艇で暮らしている男に物語となるべくおおきな展開はない。日常における瑣末な事象がつむがれていくように、ときにはその事象に対する思いをつぐむようにして、あちらこちらのページに転移していく男の思案は起伏のない川そのものであり、そこに流れる液体は物語でありながら物語ではないような、澱みのある文体を呈している。そのようなあいまいな水質だからこそ、冒頭に述べた意識の乖離はページを繰るごとにますます顕著となり、ページを閉ざせば飲み込んだはずの液体はすっかり気化している。それでも本を読もうとするかぎりはなんとかその気体を意識につなぎとめようとして反芻する言葉が、はたして男によるものなのか、自分自身によるものなのか判然としないのは、やはりこの物語のような文章をいちいち順序立てて覚えていられないからでもあるし、そもそもそのような時系列としての秩序は、ただ純粋に「読むこと/読まないこと」には不要ではないのか、とさえ思えてくるのである。
 男はそのようなあいまいな地点にあることを肯定しているわけでもなく、かといって否定しているわけでもないようで、それ自体のあいまいさを景色を見ることや音楽を聴くこと、本を読むこと、料理をすること、絵や写真を見ること、他者と話をすること、あるいは反対にそれらをしない、といった日常の営為から副次的に生じるためらい、断続的なよそ見やあまねく保留に託しながら、緘黙を守っているようである。あらゆる物事に対して言葉という方法論がつねに基軸となって働いているのがこの世界のさだめであり、それがさだめと関わる唯一の方法となるならば、その男の緘黙も、よそ見や保留を許容した読書も、言葉をたずさえて生きていくためのひとつのゆるやかな指針となりうるのではないか。たとえば「見ること」と「見ないこと」の総体として、余白となった部分に生じるひとつの景色を見るために、そこで「言葉にしない」という方法でさえも許されるのであれば。

伊藤正人
美術作家。ファ ン・デ・ナゴヤ美術展2012「緘黙する景色」企画者(2012年1月12日-22日, 名古屋市民ギャラリー矢田にて開催)