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2010年12月16日木曜日

『津軽』


今回のブックレビューは、古書 五っ葉文庫の古沢和宏さんに、お気に入りの「痕跡本」を紹介していただきました。

『津軽』太宰治

古本屋さんに行くと、同じ「本」屋の筈なの新刊本屋さんとはまったく違う空気が漂っています。空気の質感が違う、とでもいうのでしょうか。すごく静かでひんやりとした空気の中、だけど、触れれば何かがはじまる様な、あの空気。それこそ、お店の本棚はそこで終わっているのはわかっているのに、実はどこかに秘密の通路でもあって、さらにその奥の奥があるのでは、なんてことすら思ってしまう、深い深い存在感…。

古本のあの感じの正体、それは単に古い紙の醸し出す雰囲気、などの物質的な話だけではなく、古本に残された人の思いなのではないか、と自分は思っています。本は、本来大量印刷の複製物にすぎません。でもそれがひとたび人の手に渡ると、新品の無垢な本はその人の気持ちや心の揺れなどを受けとめ、ページに刻んでいるような気がしてならないのです。それらの思いは、大抵は目には見えません。でも、たまにそれが見えるかたちで残されている事があります。

古本を探すとたまに残されている、書き込みや、いたみ、挟み込まれた紙切れなどの前の持ち主の痕跡。でも、それこそが本に蓄えられた「読書の記憶」なのです。どんな人が、どんな事を感じ、そして、どんな気持ちで本と接していたのか…。そこにはその本と持ち主との関係から生まれる、世界でひとつだけのものがたりが存在しています。

とある古本屋でみつけた太宰治の「津軽」に残されていた書き込み、それはたった一言「たいくつなりし本なれど…故郷はいいなぁ」というものでした。はきすてるような、でも噛み締めているこの言葉、この人は、もしかしたら故郷はまさに「津軽」なのではないでしょうか。そして、自分の故郷と同じ名前の本を偶然みつけ、手にした。中には見知った地名がいくつもでてきて、そして同時にフラッシュバックする記憶の数々…。そこには「太宰治」は関係ありません。ただただ、この本は故郷の記憶を呼び起こす鍵でした。読んでも読んでも、内容は上滑りをするばかり。読み終えた感想もないまま、ただ漠然とした読後感に、たいくつ、という言葉を置き換え、そして、ぽろっと本音をもらしてみた…。

なんて。こんなものはただの妄想です。でも、そんな風にこの本を眺めると、途端に本が生きているかの様な感覚すら思えてきます。そういった、前の持ち主の記憶が色濃く残された本のことを「痕跡本」と呼びます。それは本と一緒に人を読むこと。本を通して見知らぬ人のものがたりを旅する楽しさは、普通の読書とはまったく違う魅力に溢れています。古本屋さんの空気は、どこか古民家の香りと似ています。積み重なった歴史と人の営みが、そのまま蓄積されているような。その空気に、自分は魅かれているみたいです。


古沢和宏/1979年11月4日生まれ。30歳。名古屋造形芸術大学在学中から古本の面白さに目覚める
※長野、東京、広島、仙台など各地のブックフェスティバルにて、「痕跡本」に関する展示やトークイベントを展開中。2010年3月には実行委員長としてブックフェスティバル「ブックマークイヌヤマ」を開催